昭和四十五年六月二十七日 朝の御理解


御理解第二十五節 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」


  迷い信心ではない、いわゆる大きな信心とそれをしかも一心と定めいと、なかなか一心と定めかねます。分かっとりながら定めかねとります。みんながそうです。大きな信心というのは、いよいよ行きづまりのない信心です。しかもその信心を一心と定めてかからせてもらう。
  今日、御祈念中にこういう事を頂いた。『云う事と行う事、思う事、神の心に適いなば、真の徳の顕るるなり』云う事、行っておる事、同時に現在自分が思うておる事、神様の心にピタッと交わるような思い方行いこ方が言葉に出して云えれるようになるならば、真の徳はおのずとそこから表れてくるというのである。 ところが、これが実は難しいですねえ。自分では自分が云うておる事は本当な事だと思うておったりしておる事も、これはもう本当な事と思うておったり、思うておる事に到っては、いよいよ自分の思いに間違いはないという風に思うておる。けれどもね、そこにそんなら真の徳が表れてないならばね、その思い方は正されていかねばならん訳です。自分の云うたりしたり思うたりしておる、その生き方で、云うならばおかげが頂けてないならば本当のおかげが表れてないならばこれは、自分の云うたり思うたり行ったりしておる事は、ここに一考を要する事になる訳です。そこで、どういう信心がなされなければならないかという事は、云う事もする事も思う事も御神意に添うと御教に添うと、云うなら大きな神様のお心にいつも添うておるという事は、任せてあるという事、神様にお任せしておるという事。この神様にお任せしてするという事はねおかげを頂くという事よりも私は今日は思うんですけれども、神様がおかげを受けられる事、神様がままになられる事その神様のお喜びの余波が私共にかえってくるのがおかげになるのです。だからこれは大変素晴らしい事です。だすからやはり徳を受ける事になるはずです。
  氏子が神様任せなら神様が氏子任せになるとおおせられますから、という事はですねえ、私共任せに神様がなって下さるのではないという事ではないのです。私共がおかげを頂く為に任せるのではないのです。神様に任せるという事は、神様がまずままになって下さる、神様がまずおかげを受けて下さる、いわゆる神も助かり氏子も立ち行くという事なんです。私共が神様任せになるという事はねえ神様が私共任せになって下さるという事なんですよ。神様が楽になって下さるのです。私共が神様にお任せするという事は・・・・・だから神も助かる、そこにその神様の思いがね、いわゆるお喜びの余波がです、氏子も立ち行きというおかげになってくる訳です。私共は自分がおかげ頂かんならんから神様任せになる、かみさま任せになっときゃおかげ頂くといったような言い方をするという事はちょっとばっかり違う訳です。いわゆる根本的に違う訳です。
  昨日、お昼頃、日田の綾部さんが新しい方をお導きして参られました。「先生、初めの間は信心しておるという事が恥ずかしいような気がして人にあんまり知られたくないといったような気持ちでした。ところが先生、今頃はもう誰にでも彼にでも困ったごたる顔をしてござる人にはなおさら、それをつかまえといてお話しなければおうわません」という訳なんです。もう本当に例えば、云う事に誰はばかる事なしに金光様のご信心をなされ合楽の信心を語られる、最近は思う事がありまして、大祓いを毎日五巻ずつ、これはどんな事があっても御神前でお供えさせて頂いて自分の腹を鍛えておりますとこう云う訳です。それはどういう訳かと云うとね、もう現在私が思うておる事は、もうとにかく合楽の親先生がおっしゃる通りにしておけばよい、という事ですけれどもです、これがそんならどのような事でも親先生任せになれるかと又ならなければならない。その腹を作る為にね、一生懸命修行というか毎日お参りが出来ませんから、そんな事をやっておりますと云うておられる。まあ、ちょいと右にしてよいか左にしてよいか迷うような事をおうかがいしてです、親先生のおっしゃる通りにする、まあこれは現在その通りにならせて頂いておる。けれどもこれがもっともっと云うなら左右が決めかねるというか、これが例えば生か死かという事につながるような事柄でも親先生任せになれるおかげを頂く為に本気で私がお参りさせて頂いて初めて頂いた、『天真地心』に焦点を置いておるとこう云う。
  最近、私は大体口うるさい方ですけれども、もう人を絶対責めまいと心に誓っておりますとこう云う。だから責めまいだけではいけませんから責めんで済むという事を有り難いと思わせて頂く工夫をしとりますとこういう。なかなかね、おかげ頂く人は違うと思いますばい。
  もう今までは一刀両断に斬り捨てるごと云よった綾部さんが、もう責める事であったら云わんて。いわゆる地心ですねえ、大地の心を心としての修行をさせて頂きよるというのである。それもそんなら、責めんというだけでは馬鹿らしかという訳です。云わんでぐうぐうこらえとるだけじゃ、だからそれを有り難いと思うところ迄高めたいと思うてです、云わんで済む自分が有り難い、どこにか有り難いとお礼の申し上げれる、それを探さしてもらい発見させてもろうて云わんで済む自分が有り難いとお礼の申し上げられるところ迄いかにゃいけん。そしていよいよの時、親先生任せになれるかと例えば自分に問うた時にです、果たしてどうか分からん、そこに腹を作っとかにゃいかんと思いましてね、この頃は毎日大祓いを五巻ずつ、しかも一生懸命もう近所の者がたまがってしもうとりますと云われとります。もうそして誰はばかりなしにです、金光様のお話がさせてもらえれる、私は合楽通いをさせてもらっておる事をみんなにもう、どこででもお話させてもらえるようになりました、と。本当にですねえ神様にお任せをすると、お任せをしておればおかげを頂くというのではなくてねえ、お任せをしとる間に神様の願いが成就しよるとその神が助かるとおっしゃる。神様が助かって下さる喜びの余波が私共にかえって氏子も立ち行くというおかげになっておると・・・
  大きな信心がよいとおっしゃるが、私は今日は大きな信心という内容をですね、こんな風に思うのです。
  一、幸せになる為に信心をするのは駄目だ。
  一、信心をするから幸せになるというのでなからにゃいかん。
  大変、スケールが大きくなる、幸せになる為に、おかげを頂かんならん為に信心をしておるというのはね、おかげに信心がちょこっとついとるという感じでしょうが、だから信心しよっても幸せでない事が起こってくるともう行き詰まって、信心しよって神様も仏様もないという事になる。いわゆる大きな信心じゃない訳です。行き詰まっとる。けれども信心をするから幸せになるというのでなからにゃならん。それをもう少し具体的に云うとですね、
  一、信心の中に生活がある。
  例えば今、田植えの真っ最中ですよね。ですからね、信心の中のほんの一部が田植えなんです。例えば、今日一日なら一日で信心が第一なのだ。だから田植えでございますけん、御無礼しますなんて事は云わんで済む訳です。もう田植えは信心の中の一部なのです。それを例えば田植えが万事お繰り合わせを頂きますように、とりあげが始まりましたからしばらく御無礼しますと、云ったような事になるのです。これは幸せになる為に信心しておるからです。自分の事が中心なのです。
  一、信心の中に生活がある、そういう思想、思い方が世界中に広がる事を願う信心こそ大きな信心。
  素晴らしい事になりますよ、信心の中に生活がある。云うならば世界全体が信心になってしまう、世界中の人間が全部信心になってしまう、その中に政治あり
経済ありという事になってくるの訳です。経済がうまくいくように政治がうまくいくように神様お願いします、という事じゃない訳です。
  私は今日ここでね、信心は大きな信心がよいとおっしゃる、大きな信心とはそういう信心だと思う、それをですねえ願いとする信心、世界中の氏子にとか世界中の事を例えば願うという事は、世界中が信心になるという事を願わなきゃいけんのです。大きいでしょうが。そこにですね、神様の理想実現という事がある訳です。神様の願いはそこなのだ。世界中の人間が信心をするという事。しかもその信心をするという事は幸せになる為に神様仏様という信心じゃつまらんて、もう全体が信心なんだ。その信心の中に政治があり経済がありという事になる、全てがあるという事になる。だから信心が中心ですから問題はすぐ解決する訳です。
  信心の中に生活がある、そういう思想がですねえ、世界全体に広がっていくという事はです、私共の願いとしなければなりません。
  只、金光様の信心をね、おかげ頂くから信心しなさいという信心ではない。今日私が云う、幸せになる為に信心するというのじゃなくして、もう信心をするから幸せになるのだという事です。そんなら今日の問題でするならです、信心の中に田植えがあるというのです。もうそれはほんの一部分なんです。信心の中に田植えという忙しい仕事が一部ある訳です。
  行くという信心。いわゆる神様がまず助かって下さる事の為の信心。それが私は信心だと思う。神も助かり氏子も立ち行く、それがどういう事かと云うと神様任せという事です。私という者がひとつもない全てが神様任せである。
  そこで小さい事は大変便利ですよね、神様にお伺いして神様任せになるという事はトランプ占いをする位に神様が使われて下さる感じたけれどもね、そういう任せ方ではなくてね、もうそれがどのような事の場合でも任せられるという事。だからその為に私は修行しとりますという綾部さんの信心ですねえ。その為に腹を作っとかにゃいかん。その為にはひとつ本気で信心の度胸わ作っとかにゃならん。毎日大祓い五巻ずつを奏上させてもろうて、おかげ頂いておるというような事になる訳です。皆さんのこうやって日参り夜参りなさっておられる信心修行もです、そこに焦点を置かれるならです、云う事する事思う事もです、もうその神様の心の中に入ってしまっておる、なる程、真の徳が受けられる事が分かります。
  その事をです、そうだと例えば一心に定めるという事です。信心はもうこれだと、信心は大きい信心がよい、迷い信心ではいかぬ、一心と定めいと、そこに一心と定める、幸せになる為に信心しよりますじゃなくて、いわゆる信心しとりますという事です。それをまちっと云うならば信心しとりますという事は信ずる心がいよいよ出来る真心にならして頂く有り難さ、いよいよ自分の心が神心に向こうていくという信心、真心、神心ですねえ、そういう信心を致しております。おかげを頂く為じゃありません、自分の心がいよいよ確信を持っての生活が出来る、自分の事が全ての事に真心を持ってされる、その心がいよいよ神に近づいていく神心になっていく事の喜び、その楽しさが私の信心であると、だからそういう信心にです、幸せというものがついてこないはずがない。信心するから幸せになるのです。それを幸せになる為に信心するという事とは全然違ってくるでしょうが。
  だからそういう信心をです、私は世界中の人間氏子に知らしめていくという私は、責任をお互いが感じさせてもらい、それを云うなら世界中と云うと大変ですけれど、自分の周囲周辺にです、それを押し進めていこうという事にです、生きがいが感じられる信心、信心の中に生活がある、世界中の人間がです、そういう信心の中に生活があるという事になったら、どういう素晴らしい事になるだろうか、いよいよ神様の理想がそこに実現する事になる。
 だからまず私共はそこのところを頂いて、そういう思い込みをです、世界中に広がることを願うていくような信心こそ、大きな信心と分からせてもらい、そこに一心と定めさせてもろうての、本当の意味に於いての信心生活。
 どうぞひとつ商売なら商売がですね、商売に信心がちょこっとばかりとまっとるごたる信心じゃ駄目ですよ。大木に蝉がとまっとるようなもんです。いうならば、商売の為に信心しとるというような、そういう事になるでしょうが。信心の中に商売がある。信心の中に田植えがある。
 それを、例えば田植えで忙しゅうございますから、取り上げで忙しゅうございますからということになってくるのです。そういうところをですね、私はね、ひとつの修行の姿勢としてです、いわゆる人に笑われても神様に笑われちゃならんといったような信心が必要になってくる。そういう場合、ある意味では非常に非難が多い場合がありますね。
 例えばです、この忙しかつに神様に参らんでもというような事。けれども、もんそれが私の信心なのだから、そういう思い込みをですね、いよいよ強く作って頂きたい。いわゆるそういう信心を、いよいよ大きな信心と私は確信致します。そういう信心がひとつ世界中に広がる事を願いとしての信心。
 信心は大きな信心がよい、迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。私はこの三十五節の大きな信心というものを何回もいろいろな角度から頂きましたが、私は今日の御理解を頂いてから大きな信心の決定版、そんな感じがしますですね。どうぞ。